2011年12月7日水曜日
舞台:「その妹」世田谷シアタートラム12月5日(月)18:30~
「その妹」 C-17
12月の上京予定を組むとき、亀治郎出演、シスカンプロデュース、武者小路実篤の書いた戯曲、という3点で選んだ観劇。
さすが武者小路という登場人物ばかり。戦争で盲目となり零落した元天才画家兄妹、それを援助する夫婦も実家の仕送りで生活する高等遊民(高等ルンペン?)、画家として成功しかかっている友人夫婦も生活感ゼロ。「滅びた世代」に見えますが、でも形は多少変わっていますが、今結構そういう人たちがいるのかも…ずっと「半分親がかり」という世代が(「the3名様」?この3人にはプライドは無いけど)…。
盲目になっても誇り高く-それでも才能に迷いながら-生きようとするある意味嫌な奴というか面倒くさい奴なわけですが、その人物を亀治郎はきちんと立体的に見せてくれました。自分も実家から仕送りを受けながら「孫援助」しようとする西島の揺れ動く心を段田もきっちり描き出しています。自分のことしか関心が無い画家の能天気さもOK。
ある意味よく判らないのは、「妹」。純真なのか、ずるいのか?主体性が有るのか無いのか?ただひたすら「尽くす妹」なのか?啄木の妹も「お兄ちゃん大好き人間」でしたが、彼女は生活者でした(「泣き虫~」では)。でも今回の「妹」は兄に劣らず生活者としてはダメ。「兄の才能を宜しく」としか言わないわけで、支えるため自分が働こうとは思わない(ここが多分現代人には理解できないところでしょう。肝っ玉かあさんとか、内助の功とか、生活費を自分で稼いで“貢ぐ”なら理解は容易い)。
パンフレットで女優さんたちがほぼ全員、登場人物たちに「働かんかい!」と言っているのも、女優さん自身がきちんと「自分の食い扶持は自分で稼いでいる」からでしょう。確かに現代の感覚では登場人物達は「理想主義者」として歯がゆいわけで、「もっと足元を見つめろ」と言いたくなりますが、多分これが書かれた時代、この階級の人たちは「労働する」という観念を持ち合わせていなかったのでしょうね。それに、登場する3人の男たちの「才能」ですが、これがどの程度なのか?それがよく判らないのがミソかも。男たちは自分や他の2二人の才能を評価しているらしいのですが、「妹」以外の女たちは、男の才能に興味が無いようにも思えるし、実際、才能を観客にきちんと示してもしない-唯一盲目になる前に書いた“妹の肖像”が示されるだけ、これは重要ですが-。
また、この登場人物達どっかで…と思って考えたところ、アガサ・クリスティの長編ミステリーの世界と似ている。犯人たちって大概「良い家柄の三男坊-財産は継げない-」とか、「零落した上流階級の貧乏な娘-生活のために大富豪の未亡人の話し相手のコンパニオンをしている、決して家政婦やメイドのような“労働者”ではない-」とかだし、その周辺の「怪しい人々」も親の遺産で暮らしている人や、家長に養ってもらっている道楽者ばかり。う~ん、20世紀初頭って世界的にこういう人種がいたのかしら??
一緒に観た「我が家の高等ルンペン」この話大変気に入ったようで、「登場する男達の気持ちはよ~くわかる」とのこと。好きにせい!!!
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