2012年11月30日金曜日

外国の昔話 11月のおはなし会に参加して

昔話に限らず、外国の文学は「翻訳」がつきもの。翻訳によって随分印象が変わります。
数年前、岩波少年文庫『最後のひと葉』 (オー・ヘンリー)を読んだとき、「ああ、これは今の話になった」と思いました。主人公のスーの話言葉が、私の知っている10代の女の子の言葉になっていたのです。その為、とても身近な物語になりました。勿論、これは100年前の物語なので、「今の言葉」に翻訳するのが正しいのか、という問題はあると思います(原作はとても平易な英語なので日本の高校生でも読めますが、今のアメリカ人が読んだら、オー・ヘンリーの英語はどのように感じる英語なんでしょう?私達が漱石や鴎外や志賀直哉の短編を読むとき感じるような“何か”はあるのでしょうか?)。
同じように、昔話の翻訳もいろいろ感じることがあります。翻訳によって随分感じが変わりますから。グリムの昔話は、モノによっては方言が入っているものもあり、そのあたりをどう処理するかで印象が変わります(方言が入っていなくても、所謂「~じゃ」とか「~なよ」とかの語尾処理が、昔話はされやすい)。
そういう処理が心地よい翻訳も有れば、いかにも取ってつけたような文章になっているものもある。それら多くの翻訳の中から、自分で「これだ」と思うネタ本を見つけるのは、結構センスを問われるというか、選んだ人のキャラクター・価値観が反映されるので、興味深いことです。
日本の昔話も同じで、どういう「本」を選ぶかで、結構その人の読書傾向が判ったりします。
良いとか悪いとかではないのですが、私も気をつけなくちゃね!反省。

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